異文化受容と文学の変容

基本情報

科目名
異文化受容と文学の変容
副題
明治期日本における近代的自我の成立とエロスの変容―漱石からたどる―
プログラム
異文化接触
授業タイプ
講義科目
担当教員
宮崎かすみ、教員
曜日
月曜日
時限
3時限
教室
36-581
授業シラバス
[シラバスへのリンク]

授業概要

 国民国家としてスタートした明治日本が、近代化・西欧文化の受容によって、いかなる変容と葛藤がもたらされたかを、主に夏目漱石の作品の読解を通して明らかにする。小説言語を入口として深部に入り込み、そこから逆に当時の社会・文化変容一般の広い世界へと着地したい。特に精神・感情レベルにおける変化に焦点を当て、近代的自我なるものがいかに明治期の日本人に内面化されていったかを解き明かすことを目標とする。
 作品としては、夏目漱石の『それから』『門』『彼岸過迄』『心』を扱う予定。いずれも細密な精読から入りつつ、当時の文化・社会的文脈からの解釈・理解を目指す。特に、西欧的リスペクタビリティ(身体や性にまつわる道徳規範)の導入によってこうむったジェンダー・セクシュアリティの変容に重点をおく。本講義は、政治や社会の歴史には表れにくい精神や心情面での衝撃・葛藤を読み解くために、比喩や象徴、両義性に満ちた小説言語の特質を活用しようとするものである。

授業計画

1:
第1回:オリエンテーション(本講義の目的と概要)
本講義の目的と概要について説明します。
同時に、近代国民国家、リスペクタビリティ、変質(退化)論、ホモソーシャル、ホモフォビア、異性愛体制など、本講義のキーワードを説明します。
2:
第2回:国民国家の成立と国民の創造―『それから』をてがかりに
漱石作品の映像としては数少ない映画『それから』から明治後期の日本社会の社会と世相を理解して、当時の雰囲気を把握したのちに、近代国民国家として歩を進め始めた日本の制度的変化を概観します。さらに一人一人の人間を「国民」にするための政策を、身体管理の面からたどります。
3:
第3回:『それから』承前、近代化としての恋愛と翻訳文学
引き続き映画『それから』を鑑賞しながら、海外文学の翻訳として紹介された恋愛(ロマンチック・ラブ)という概念についてアプローチします。作品でも漱石の弟子の森田草平と平塚明子の駆け落ち事件として登場しますが、恋愛は近代人になるための感情教育の一環でもありました。恋愛の導入と流行を、北村透谷や『女学雑誌』なども使いながら探ります。
4:
第4回:『それから』承前、スパーマティック・エコノミーから読む
この回で『それから』を終えます。スパーマティック・エコノミーという批評概念を紹介します。スパーマティックはスパームからきています。英語ではsperm、自分で調べてみてください。貨幣が経済の血液に例えられるように、血液は経済と人々の間を循環しているものと想定されていました。血液のみならずspermも。もちろん西欧人の妄想のなかでの話です。作品にも循環する血液の表象について考察します。
5:
第5回:過去のエロス、過去の呪い―『門』を読む
異性愛を主に扱っていた『それから』とは対照的に、『門』は抑圧された同性愛がテーマとなっています。同性愛の表象を読み込み、クィア・リーディングという解釈手法を学びます。近代化としての異性愛と、過去に周縁化された同性愛の対立を作品から浮かび上がらせます。
6:
第6回:西欧における同性愛の文化史
作品から離れて、西欧における同性愛の歴史を概観します。西欧には同性愛を抑圧する長い歴史的伝統がありました。他方、漱石の時代にはその長い歴史にも変化が訪れ、性科学という学問が成立するなか、同性愛という近代的な概念が成立しつつありました。同性愛の問題系を歴史的文脈のなかでとらえなおします。
7:
第7回:『門』のホモソーシャルな欲望
同性愛を究極のタブーとする西欧文化を受容するということは、同性愛タブーを受け入れることでもありました。江戸期までおおらかな男色文化を誇った日本人にとって、男性間のエロスが突如としてタブーとされ野蛮視されたことは精神面での大事件であり、当然のことながら人々の精神に大きな葛藤をもたらしました。作品にこの葛藤を読み取ります。
8:
第8回:退化と推理小説―生来性犯罪者とシャーロック・ホームズ―
当時一世を風靡していた変質論(退化論)の思想を紹介します。とくに犯罪人類学として展開されたこの思想は、進化の反対の退化した者(未開人も)を、生まれつきの犯罪者と措定しました。進化した西欧人に対して、日本を含むアジアは退化あるいは野蛮と位置付けられました。この思想をドイルの『バスカーヴィル家の犬』の鑑賞を通して学びます。
9:
第9回:漱石の名探偵―推理小説のパロディとして読む『彼岸過迄』
『彼岸過迄』には興味深い点がたくさんありますが、この授業ではとりあえず、推理小説のパロディとして読みます。漱石の探偵嫌いは有名でした。前回の講義の内容を鑑みれば当然のこととわかるはずですが、そんな漱石が意趣返しからなのか、ダメダメな探偵を描きました。この探偵の推理はまったく冴えません。探偵の視線が機能しない場所として描かれたこの作品に込めた漱石の意図はなんだったのかを考えます。
10:
第10回:『彼岸過迄』承前、オイディプス神話の視点から読む
このころの英文学ではキリスト教に代わってギリシャ神話のモチーフを使うことが流行していました。その影響を受けたのか、『彼岸過迄』にもオイディプス神話の構造が組み込まれているように読めます。フロイトのエディプス・コンプレックスによって有名になったオイディプス王。それと知らずに父を殺し、母を娶り、その事実を知るや自らの眼を針で突いて失明した悲劇の王です。この王と母親である王妃との間には二人の姉妹が生まれました。姉がアンティゴネ、妹はイスメネといいますが、『彼岸過迄』の姉妹にもその影があります。人文系学生にとって絶対知らなくてはならないこの神話をおさらいしつつ、アンティゴネのように才気あふれる女主人公の魅力に迫ります。
11:
第11:クラフト-エビングと森鴎外の『ウィタ・セクスアリス』
漱石を少し離れて、この回は、もう一人の明治の文豪、鴎外の『ウィタ・セクスアリス』を扱います。医者でもあった鴎外は、ヨーロッパの性科学の最先端にも通じていました。成立しつつあった性科学の、というよりは、精神医学書として一世を風靡していたリヒャルト・フォン・クラフト‐エビングの『性的精神病理学』は、性的倒錯者たちの自伝的な性的履歴書ともいうべき多数の症例―ウィタ・セクスアリス―から成り立っていました。鴎外は、もちろんクラフト‐エビングのテキストを模したのです。たちまち発禁処分になったこの小説も、今では簡単に文庫本で手に入ります。明治の青年の性的履歴の告白を、その成立の背景からひも解いてみましょう。
12:
第12回:近代的個人の内面化とキリスト教―『心』を読む
『心』という日本近代文学の聖典には、聖書に影響を受けていると思われる痕跡が多々あります。明治期における聖書の翻訳事情を解説しなて、当時におけるキリスト教受容の社会的意味を解説します。そのうえで聖書神話を確認しながら、『心』との呼応関係をたどります。
13:
第13回:『心』承前、オスカー・ワイルドの悲劇から読む
『心」は、漱石作品中もっとも鮮明に過去のホモソーシャル/ホモセクシュアルに対する追慕が表現されている作品です。ホモセクシュアルゆえに破滅し、監獄に送られたオスカー・ワイルドは漱石の同時代の作家でしたが、漱石も作品を読んでいました。ワイルドが獄中から苦い思いで書いた手紙も読み、深い感動を覚えていたと思われます。ワイルドの生涯と作品を紹介しながら、漱石への影響を考えます。
14:
第14回:『心』承前、「身代わり」としての文学
特にワイルドの「W.H.氏の肖像」という作品から、「身代わり」としての文学という思考を抽出します。漱石が絶賛していたウォルター・ペイターにも触れます。そして、イエスの「身代わり」の死というキリスト教の思想へ立ち戻ります。
15:
第15回:明治における神話としての『心』
『心』の総括と、講義全体のまとめ