死の制度

基本情報

科目名
死の制度
副題
ポップカルチャー作品にある「死」を、本当に見ていますか? ― ゲーム・映画・文学・ドラマ・Jポップ
プログラム
感性文化
授業タイプ
講義科目
担当教員
柿谷浩一
曜日
金曜日
時限
3時限
教室
38-AV
授業シラバス
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授業概要

ファミコンの古典的作品を、幾つか思い出してみましょう。(実際、講義の導入は、以下を含む数種類のゲームを実演・紹介しながら、授業全体の問題提起を行います)。
 例えば、『ドラゴンクエストⅡ』――。
 「○○○があらわれた」→「たたかう」→「やっつけた」。プレイヤー(主人公)は、次々と出現する敵々を倒しながら、物語を進めていきます。その内、HP=体力が尽きると死んでしまう。死んだ主人公や仲間は、「死者」として「棺」に入れられ(なんと象徴的な設定だろう!)、教会で神の加護を受けることで「生き返る」。ゲーム攻略まで、数えきれないほど、この《死/蘇生》が繰り返されます。そこには、どんなに甚大な被害を被っても、主人公たちは生き返ることができるという、一種の《不死》についての暗黙の了解のようなものが存在しています。しかし私たちは、ゲーム内における「死」の問題には、あまりに鈍感で、あらためて意識を向けることはほとんどないように思われます。モンスターの夥しいまでの「死」と、主人公たちの不死を前提とした「蘇生」の反復…。ドラクエⅡをプレイする時、私たちは、そこにある「死」の実相を、本当の意味では〈見ていない〉のではないでしょうか。むしろ、そのことによって、ゲームは成立しているのかもしれません……。
 こうしたことは、ドラクエⅡと逆の性格を持ったRPGでも、事情は変わらないように見えます。例えば、『MOTHER』は、極力「死」を抑制した物語として仕立てられています。敵は殺される形をとらず、改心させられる対象として、戦闘では「やっつけた」に代えて「われにかえった」という表現が用いられます。そこに私たちは、ある種の牧歌的な印象を受けることはあっても、その根底にある《死の不在》まで感じとることは少ない。これは別段、RPGに限ったことではありません。ゲームにおける「死」という問題は、ジャンルを問わず潜在化しやすいと言えます。
 例えば、アクションゲームの代表格『マリオブラザーズ2』――。
 マリオは、敵に接触すると死んでしまいますが、その「死」の瞬間は、極めて興味深い形で表象されます。死んだマリオは、その場に倒れるのでも、敵のクリボーのように消失するのでもなく、まるで物語空間からはじき出されるように、地面の「こちら側」を通って画面下へと落ちていきます。それは、地面に転がるような形の《死体》ではありませんが、明らかに一つの《死者》を目撃する瞬間だと言えます。しかし私たちは、しばしばプレイをしながら画面に向かって「死にそう」とか「死んだ」といった言葉を実際に発する、つまりそれが「死」であることを強く意識している一方で、画面中央で起こるマリオの「死」の本質については、考えを巡らさずに済ませるのが当然になってしまっています(……と、色々書いている内に、カメは蹴とばされていなくなる定めですが、あれは本当に死んでいるのか。「死骸」と考えてよいのか、という疑問がふと出てもきたりもしましたが、この続きは授業にしましょう)。
 ゲームの中で、「死」がどのように扱われ、組織化されているか。物語空間=画面に確かに存在する「死」(の問題)を、なぜ私たちは〈意識しない〉ことがあるのでしょう。それを〈問題にしない〉ことに違和や不安を感じることがないのでしょうか。こうした、見ているようで、実は充分に〈見ること〉ができていない「死」の問題、それを取り巻く現代の私たちの《感性》や《想像力》について、いま一度、考え直してみようというのが、この講義の出発点です。もちろん、ここにはフィクションという厄介な問題が付随してきます。そこで重要なのは、フィクションが「死」をどう描いているかということ以上に、フィクションとしての「死」をどのように経験し得ているか、ということです。あらゆる角度から、「これ」という《答え》を出すことより、書いてきたような問題に向かう《考え方》や《視点》を、皆さんと一緒にあれこれ追究してみたいと考えます。
 ここまでゲームのことばかり書いてきましたが、実際の講義では、ゲーム以外に、ドラマ・文学・映画・音楽(Jポップ)など、さまざまなジャンル作品を横断しつつ、考察と思索を深めていきます。ただ、このままではあまりに広すぎるので、私の専門と関心に沿い、考察対象は、現代日本のポップカルチャー(あるいはサブカルチャー)を基本にします(ちょっとズレるものも時々出てくるでしょうが…)。
 具体的に取り上げる予定の作品は、次のとおりです。
 ●ゲーム● 各種初期ファミコンゲーム、『ストリートファイターⅡ』
 ●映画● 『あしたのジョー』、『デス・ノート』、『GANTZ』
 ●漫画・文学● 岡崎京子『リバーズ・エッジ』、見沢知廉『天皇ごっこ』、3・11直後の小説作品(高橋源一郎ほか)
 ●テレビドラマ● 『最高の人生の終わり方~エンディングプランナー』、『安堂ロイド』、『信長協奏曲』
 ●音楽● 尾崎豊、hide(X JAPAN)、森山直太朗
 ●その他● 全日本プロレス(三沢光晴ほか) etc
 「死」という問題を考えるにあたって、先の3・11(東日本大震災)を想起しないわけにはいきません。それ以降、芸術も表現も、またそれに対する姿勢も見直しが続けられています。私は〈作品に何が書かれてあるか〉よりも、〈作品に何が書かれていないか〉、もっと進んで作品に書かれてありながら〈読み落としてしまうものは何か〉という問い=視線が重要だと思っています。同様にこの授業も、そこにありながら、実は〈見えていない〉、〈見過ごしてしまっている〉「死」の表象に重点を当てて、各作品を再考していこうと思います。
 なぜ、対象をできるだけポップカルチャーにするかというと、誰もが知っている、親しみある作品において、きわめて象徴的に〈死〉が描出されているにも関わらず、それを、あるいはその実質を私たちが十全に〈見ていない〉、〈意識していない〉ことがあるとすれば、これほど根源的な問題はないと考えるためです。上に挙げたものは、少なからず「死」を真正面から主題にしているテクストばかりですが、私なりに、そこに描かれている「死」(の問題)が見えにくい、つかみにくいと思われる側面を持った「再考すべきと思われる作品」を選びました。皆さんも、触れたことのある作品も多いはずです。そこにある「死」を、あなたは本当に《見ている》でしょうか。「死」をめぐって、《見過ごし》たり、《意識しない》でいるものは本当にないでしょうか。各作品の特徴と問題点とともに、じっくり検証していきましょう。
 なお、各回の作品テーマや素材的に、抱き合わせて検討した方がよい作品が別にあることも多々あります。適宜、上の作品に加えて、柔軟に考察を進めます。そのため、内容や計画の一部を変更する場合がありうえます。それを了承して、受講して下さい。
 最後に、「授業方針」に関して、少し触れておくことにします。
 教室では、一つの作品について、誰々がこう述べているといった、いわゆる「先行研究」に拠った考察は多く行いません(先行研究自体、少ない作品を意図的に選んでもいます)。むしろ、私なりのやり方で、作品そのものを相手に分析・解釈して見せることで、問題を独自に浮かび上がらせることを大事にしたいと考えます。時に失敗もあるかもしれませんが、それも恐れず、毎回毎回、作品に挑んでいくような「文化構想学部」らしい、実践の場を作れたらと願っています。その意味で、学問的知識や情報を体得するような類の授業にはなりません。受講者の皆さんも、私と一緒にあれこれ積極的に考えて下さい。そして、時には「先生、それは違うんじゃない」、「私ならこう考えるけど」といった反論を、リアクションペーパーを通して、ぶつけてほしいと思います。皆さんの面白い見方や、私とは異なる解釈も、折にふれて紹介していきたいと思っています。
 ――皆さんの周りには、身近な作品の中には、多くの「死」が潜んでいます。それは、本当に容易に分かるようなカタチをしていますか。〈見落としている〉ものはありませんか。ポップカルチャー作品の中にある「死」を捉え返してみる挑戦=冒険の始まりです。15回の授業の中で、1回でも「あっ」という驚きに似た発見が提供できたり、皆さん自身がそうしたことにぶつかってくれたら、この講義はまず成功です。

授業計画

1:
第1回
オープニング + いかにポップカルチャーの中の「死」を見ていないか : ファミコン初期名作を実践しながら考える
2:
第2回
【ゲーム①】 RPGにおける「死」 :『ドラゴンクエスト』と『MOTHER』を中心に
3:
第3回
【ゲーム②】 アクションゲームにおける「死」 :『ストリートファイターⅡ』という経験と、対戦格闘ゲームの感受性
4:
第4回
【映画①】 フィクショナルな「死」を実写化できるのか? :『あしたのジョー』(アニメ版+実写版)の間にあるもの
5:
第5回
【映画②】 「死神」から見えてくる、もう1つの「死」 :『デスノート』における本当の終焉
6:
第6回
【映画③】 ゲーム化された「死」の方程式 :『バトル・ロワイヤル』から『GANTZ』へ
7:
第7回
【文学①】 「死体」「屍」の記号論 :岡崎京子『リバーズ・エッジ』ほか
8:
第8回
【文学②】 自己/他者の「死」と最期の言葉 :見沢知廉『天皇ごっこ』ほか
9:
第9回
【文学③】 東日本大震災と文学的な〈想像=創造力〉 :3・11直後の小説(高橋源一郎ほか)
10:
第10回
【テレビドラマ①】 「死者」というリアリティー :『最高の人生の終わり方~エンディングプランナー』(2011)を中心に
11:
第11回
【テレビドラマ②】 「死」を禁止する言説 :『安堂ロイド』(2013)を中心に
12:
第12回
【テレビドラマ③】 感動を与える「死」の盲点 :『信長協奏曲』(2014)を中心に
13:
第13回
【音楽①】 神話化されたミュージシャンと歌詞の行方 :尾崎豊、hide、志村正彦(フジファブリック)など
14:
第14回
【音楽②】 出来事としての「死」と、物語としての「死」を聴く :森山直太朗など
15:
第15回
【その他】 「死」は《そこ》にある :まとめにかえて―全日本プロレス・三沢光晴の死闘にふれて